スクイズ好きの国民性

 不思議なことがある。
 「敗戦」と言わず「終戦」という。
 「戦死者」と言わず「戦没者」という。
 言葉を弄び、新しい言葉を作り出すことで本質を曖昧にする。

 日本人は野球が好きだ。野球にはスクイズという手段がある。三塁にランナーがいる時、内野にゴロを転がし、野手がそれに対応している間に三塁ランナーがホームインして得点する。もちろんこれはルールに則った正当な攻撃法で、このこと自体が悪いわけがない。しかし、投手が剛球を投げ強打者が打ち返して得点するという正統?なプレイに比べるとなんとなくウラをかいて得点するように思えてならない。

 野球なら変化に富んだ攻撃法の一つとして面白さが増すスクイズであるが、言葉を弄んで言い方を変えることで本質のウラをかいて隠蔽するような態度や思考法には辟易する。そんなことが多すぎるのだ。「終戦」の日の今日、戦争をまるで自然災害ででもあったかのように表現したりする姿が目立つようで気になる。
 世論も「二度と戦争はするべきでない」とか「平和が大切だ」とか言いながら選挙をすれば憲法九条を変えようとする政治家や政党が大量得票をする。その場だけの気分で、無責任で実の伴わない言葉を弄しているからこのような国になってしまっているのだろうか。

 環境問題についても全く同じようなことが言える。たとえば、「ヤシ実の油から作った洗剤だから安全」などと言っていても、ヤシの畑を広げるために熱帯雨林伐採していることをどれだけの人が知っているのだろう。

 言葉を弄ぶのは、いい加減にするべきだろう。

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あまりにも情けない

 職員室での会話。
 「インドの人って何語を話してるの?」
 「ううん。何語かなあ?
  英語じゃないの」
「そうだね。コンピュータの技術者なんか英語使ってるからね」

 残念なことだがこれは生徒同士の会話ではない。難関と言われる教員採用試験を突破してきた教師たちの会話だ。嘆かわしい。

 確かに観光旅行の範囲で接すると実際には英語で用が足りることだろう。だから、そう考えるのも無理はない、と言えなくもない。

 インドがアジアの一部で、英語圏に属していないことを知らないこともまあ、やむを得ないだろうか。

 僕が衝撃を受けたのは、インドがイギリスの植民地だった、ということを全く知らないまま社会人になり、教壇に立っている、という事実に対してである。英語が広く通じるのは、それなりの歴史的な背景があると推測できないのだろうか、と思ったのだ。断っておくが、この教師たちに責任はないと思う。

 このような、常識的と思われる歴史的事実をキチンと学ばせないまま、教員として現場に立たせて、何の問題も感じていない(と思われる)日本の教育行政の貧困さに驚きと憤りを覚える。

 ああ、ますます現場は…。

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HR通信の原稿から

 いま、世間は「不況だ、不況だ」と騒がれている。事実、新規に学校を卒業する人たちの就職状況は最悪の状態だと言われている。そして、この状況を招いた原因は、「新自由主義」という考え方である、と指摘されている。
一時期、「新自由主義」は、世界のあり方を形作る基本的な考え方、としてアメリカや日本でもてはやされた。今でもその尻尾にすがっている人々が残っているかも知れないが。
 「新自由主義」の考え方を支える基本的な思想に「自由競争」というものがある。
競争によって競い合うことで適者が生き残り、適応できない者は脱落していき、結果的に質の良い者だけが生き残っていく。このようにして商品も、サービスも、組織も、ニンゲンも、質が向上していく、という考え方だ。これは、ダーウィンが進化論の中で提唱した自然淘汰説(しぜんとうたせつ)に基づいており、一見分かり易い。
 分かり易いからたくさんのヒトがこれに飛びつき、もてはやし、信奉して祭り上げた。これを信じて、企業も、政治も、学校も、塾も、狂ったように進んできて今日の破局に直面して慌てているのだ。ブザマきわまりない。
 この「競争万能」の考え方に早くから疑問を投げかけていた人たちがいる。他ならない生態学者たちだ。実は、ダーウィンの考えは、かなりの部分で合理的なのだが、「自然淘汰」だけで生物の進化を説明することは出来ないのだ。つまり完全ではないのだ。このことはダーウィン本人も認めていることなのだ。だから、ダーウィンの進化論を生半可に振り回すのはダーウィンへの冒涜でもある。
 それはまあ、置くとして、例えばこういう事実がある。
 アブラムシという害虫がいる。小さな虫で植物の茎に傷を付け、そこからにじみ出る汁を吸って生きている。アブラムシが付くと植物が枯死するから植物にとっては害虫である。ところが、最近の研究で、一部のアブラムシは、植物の汁を吸って(つまり植物に寄生して)生活しているのだが、その植物に出来た傷を自らの身体から出る分泌物で修復し、枯死することを防いでいるということが発見されたのだ。このことは、茨城県つくば市の産業技術総合研究所(産総研)の研究チームが発見した。それによると、イスノキという常緑樹に寄生するモンゼンイスアブラムシは、植物細胞を球形に膨らませた「虫こぶ」(直径約8センチ)を作って内部にすみ、植物の汁を吸って生きている。研究チームが虫こぶに直径2ミリの穴を開けると、幼虫が傷口に集まって体液を放出して傷をふさぎ、別の幼虫が口針と呼ばれる突起で植物を刺激して傷の再生を促した。ほぼすべての穴が1時間以内にふさがれ、1カ月後に完全に組織が再生された。一方、体液を除去した虫こぶは傷が広がって枯れ、中のアブラムシも全滅した。(毎日新聞の記事より)
 つまり、一方的にアブラムシは加害者、植物は被害者、という図式は成り立たない、ということなのである。
 アブラムシは「加害者」であると同時に植物の「保護者」でもあるし、植物は「被害者」であると同時にアブラムシの力のを「利用者」でもあるのだ。自然界はこのように複雑だということができる。
 それでも、昆虫や植物の世界などは、まだ単純の方である。ほ乳類や鳥類になるともっと複雑だし、ニンゲンの世界になるとさらに複雑になってくるだろう。単純の「競争万能の論理」など通用するワケがない。賢しげな顔をして「競争の万能」を説くヤカラは、自然の懐の深さを知らぬ愚かで傲慢で哀しい存在、進化の過程に一時的に表れ、やがて滅びる運命にあるあだ花のような存在であるに違いない。
 もっとも、こんなことは、今更僕が言い出すようなことではない。もっとずっと前に、宮沢賢治先生が多くの童話の中で指摘しているし、賢い先人たちが多く述べていることである。また、金子みすゞさんも直感的に詩で表現している。たくさんの賢人たちが気づいて指摘してきたことなのだ。
 そのことにも気づかずに、または気づいていながらしらっぱくれて、「競争万能」を推し進めてきた愚か者たちの罪は大きい。
 誤解の無いように断っておくが、もちろん、すべての「競争」を否定し排除しているものではない。一人一人が力を伸ばしていくときに切磋琢磨は必要だし、大きな力になるに違いない。このような競争と生存を賭けた競争とは本質的に別のものである。それを意識的に混同させて振り回している「新自由主義」の考え方に強い懸念を感じるのである。
 「競争」に煽られて自分の成長を見失わないで欲しい。
 「競争」よりも「共生」していくことを真剣に考えなければならない時代に、キミたちは生きていくはずだ。
 どうか、本質を見極める「目」を曇らせないようにしていてもらいたい。現在の日本国憲法が、「競争の効果」を振り回し、多くの国民を戦争に導き死の淵の追いやった反省に基づいて生み出され、学校教育もそれに基づいて再構築されたものであるはずだ。その歯車を逆転させようと企む者たちの策謀を見抜き、断固として拒否する姿勢をもってほしい。 学問とは、そのために深めるのである。断じて立身出世の手段などではないはずだ。真理こそが、いま、もっとも必要とされている。

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非正規労働者

きょうは、長野県で「非正規労働者」として工場で働いている教え子の誕生日だ。たくさんの卒業生を送り出してきた。みなそれぞれに印象に残っている。ただ、その中の何人かは「運命」と呼ぶほかない、不条理な巡り合わせに翻弄され苦しい人生を歩んでいる。 彼女もその一人だった。三年半ほど前、生活の再建を期して派遣労働者として長野県へ行くことを決断した。それ以来、懸命に働いて、生活もどうやら安定して少し余裕も出てきた様子だった。そこに、この不況である。
 僕が見る限り、彼女は、とことん真面目に生きてきている。同世代の娘たちの中には、なんとか楽をして大金を手に入れることを考える者もある。現代はそういう世相だ。そのような中で彼女は、愚直なくらい真面目に働いてきた。ひたすら真面目に働いてきた者が、なぜ報われないのか。
 このような現実を見ていると、この国の歪みが、もう限界を超えているではないか、と思わずにはいられない。

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